我以外皆我師也
2025/10/11
この言葉は私の人生訓であり文豪吉川英治が語ったと言われています。
ダイヤモンドはダイヤモンドで磨くように、人は人で磨かれると思います。
私は大学卒業後営業職に付き退職するまでの約45年間それこそ数千人の方達との出会いがありました。
私は沢山の本を読みました。本で学べることももちろんありますが、特に感動して自分が磨かれると思った著者には、いろいろな策を講じて直接お会いして話を聞き学ばせて頂きました。
そんな中退職した会社の15年間の仕事の中で、読んだ書籍の43名の著者にお願いして講演会を企画しました。私一人ではもったいと考え、会社の取引先担当者を無料でお招きしました。
今回は、その中でも特に私の思い出に残っている事例を何件か紹介します。
・日本で初めてホスピタルクラウンとして病院の慰問をスタートさせた方
お子さんが長期入院している病室に、赤い鼻のクラウン(道化師)が 笑顔を届ける。
治療行為ではないが笑顔が病院にも必要だと学びました。
・世界一明るい視覚障害者
お会いした時の名刺のキャッチコピーに書かれていました。網膜色素変性症という目の難病を患い視覚をほぼ失い、白杖を常にお持ちでした。
視覚障害者にも関わらず障害者の就労支援会社の代表として日本中を飛び回り活躍されていました。現在では、ベンチャー企業や中小企業のコンサルタントとして実績をあげています。
障害を逆手に取り注目もされ、ハンデキャップはマイナスではないことを学びました。
・非常食用のパンを缶詰にしてリサイクル循環を確立
備蓄用の乾パンは正直美味しくありませんでした。那須塩原のパン屋さんの社長が美味しいパンをそのまま備蓄できないかと研究に研究を重ね、5年間保存出来る缶詰を考案したのです。社長が素晴らしいのは、その備蓄用パンの缶詰を賞味期間がくる数カ月前に回収して廃棄せず、世界中の貧困地域の子供たちに無償で送ったり、日本でも災害の被災地に届ける活動をしているのです。この活動に感銘を受けた学校や大企業から定期注文がどんどん入り、美味しい備蓄用パンの缶詰のリサイクルとして一躍有名になりました。
ボランティアとビジネスの一見相反する仕組みを両方成功させる知恵を学ばせて頂きました。
・1999年2月ニュースステーションの所沢ダイオキシン 偏向報道の逆境から奇跡の復活
所沢の産業廃棄物中間処理会社の石坂産業が、TV朝日の偏向報道で大打撃を受け存亡の危機に陥りました。当時社長だった父親から引き継ぎ、現在では年間4万人の見学者や里山保全した公園への来場者を実現した女性社長。
近隣農家から出て行け運動が起こる逆境でも、地域への貢献を達成させる強い精神力を学ばせて頂きました。
紹介した4名は許可の関係で実名は控えさせて頂きました。
最後に事前にこのコラムの趣旨を伝え許諾を取りました沖縄のマザーテレサと呼ばれる安田未知子先生を紹介します。
当時、沖縄県うるま市の介護老人保健施設いずみ苑の苑長をされ、WAVE出版「引うける生き方」を執筆、2015年7月アルカディア市ヶ谷の出版記念講演を聞き感銘を受け楽屋まで押しかけ交流が始まりました。当時84歳。
安田未知子先生は、沖縄戦で牛島中将とひめゆり部隊の伝令役を務めました。
何故私が安田未知子先生を「先生」とお呼びするのか。戦後初沖縄の女性教官になりクラス担任に就いたからです。その学校の就任中、クラスの厄介者だった不良の男子.女子生徒43人を自宅で面倒をみながら全員卒業させた実話です。
当時沖縄のクラスには、父親が米兵でシングルマザーの家庭の子供たちが何人か生徒としていました。大概が不良で暴れたり規則を守らず授業料も払えない厄介者でした。しかし安田先生はそんな生徒が納得出来ない時はゲンコツもいとわず熱血指導したのです。その甲斐あって、43人は無事卒業。中には、自動車整備工場の社長になった生徒もいました。本に紹介されたのは、43名の中の数名なのですが、それぞれがドラマになるぐらいのエピソードで感銘を受けました。
その後、安田未知子先生が毎年立川の娘さんの元に夏の期間中滞在することを知りました。立川に近い所沢に住まいがある私はお話にあがったり、お食事も何度もできました。
残念ながら、現在安田未知子先生は体調を崩され、ご自身が苑長をされていたいずみ苑に入院をされています。今は電話での会話ですが定期的にお話ししています。

